戦国時代から江戸時代にかけて、この地域は高遠城を中心に栄え、260年に及ぶ徳川治世のなか、高遠藩主は保科氏、鳥井氏、内藤氏と引き継がれ、政治・経済の中心地として発展しました。
戦国時代から江戸時代にかけて、この地域は高遠城を中心に栄え、260年に及ぶ徳川治世のなか、高遠藩主は保科氏、鳥井氏、内藤氏と引き継がれ、政治・経済の中心地として発展しました。高遠はとりわけ文化・学問の地としても知られ、当時の藩校であった進徳館からは、明治時代を支えた優れた人材を多く生み出したことでも知られています。今でも高遠町の佇まいには、かつての城下町時代の面影を感じることができ、ゆっくり散歩しながらの散策も趣深いものがあります。
荒井区内の萱は「信州そば発祥の地」の伝説を残し、秘伝の味「行者(ギョウジャ)そば」が今に伝えられています。奈良時代の初め、修験道の開祖役小角は修業のため信州に入り、小黒川をさかのぼって駒ヶ岳を目指しました。途中、内の萱で村人たちに温かくもてなされた役小角は、お礼として蕎麦の実を置いていきました。村人たちはこのそばを大切に育て、信州全体に広めたのです。
江戸時代の初め、高遠の殿様はことのほかそばが好きで「辛つゆ(大根おろしの汁に焼味噌を入れたつゆ)」で食べる内の萱の「行者そば」が大好物でした。それを聞いた近郷近在の人々は行者そばを食べようと内の萱におしかけ、大変な評判になってしまいました。人々の求めに応じ切れなくなった内の萱では「西駒登山を修める者以外行者そばを食べることはできない」とし、以後、行者そばは秘伝の味となりましたが、今ではいつでも内の萱で、また毎年10月下旬に開かれる「行者そばまつり」で味わうことができます。
信州そば発祥の地・伊那市には手打ちそばのおいしい店が多く、各店に「辛つゆそば」「十割そば」があります。
また、11月からは新そばが出されるようになります。ぜひ一度ご賞味下さい。
石工(いしく)とは石材加工を行う職人のことで、別名 石切(いしきり)とも呼ばれました。
江戸時代、信州高遠は石工の里として全国的にも知られ、すぐれた技術を持った「高遠石工」は全国で活躍。北は青森、南は山口に至る1都18県に及ぶ全国各地で人々の心をとらえ、多くの作品を残しました。
江戸城の石垣工事や東京都お台場の「品川浦砲台」の石垣工事にも高遠石工が参加したという記録が残っています。
また田園風景や山岳風景の広がる伊那市では、旧街道沿いの辻や名刹の境内にその石仏をみることができ、農村の人々の暮らしのなかで大切にされてきた「石仏のある風景」が今もなお残っています。
江戸時代、信州高遠は優れた技術を持つ石切り職人=「石工」が多く活躍しており「高遠石工」とよばれ全国各地で作品を残しました。
そんな石工のふるさと高遠町では、いまでも2,229基の石仏や石造物が残されており、美しい風景とともに楽しめます。
石仏探訪の際にはグーグルマップ付詳細ページをご利用ください。